H20 1993年~episode 8 その後のH2oと自分。H2o final episode.

H20 1993年~episode 8 その後のH2oと自分。H2o final episode.

2022-12-02 0 投稿者: katsu

おそらくH2oに関してはこれが最後の書き込みになると思う。というかもう書くことが無い。

なのでここはテキストのみとなります。長いのでスルーしてください。

私がPARSON’Sを離れて以降、ライセンス部は以前のチーフが戻って仕切る事になるが、本体自体も売りに出し、ライセンス先は半分ほどとなり、ある程度、まとまった単位で商社にライセンスを任せる形になった。なんとなく「乗っ取り」みたいな形になったようで、その後何とか取り戻し現在も規模はわからないがPARSON’Sブランドのライセンスは継続されている。

どのような形であれ、いまだブランドとして残っている、という事実はやはりすごいと思うし、天才の天才たる所以というか、まあそういう事と思う。

当然のことながらH2oはすぐに空中分解となったようです。(どこか他人事)

NickのwikiにもH2oの記載はない。その後彼が描いたであろうH2oと表された作品を見た記憶はあるが、活動自体はやはり続かなかったのであろう。

残念ながらこちらの関係者の中ではH2oは私がやっていたブランドと言う認識がある。当然中心になって動いていたのでそれで正解ではあるが、不本意である事も事実なのです。なのでこの様に自分のブログで自分の立ち位置から内容を書いているという事。

ただ、この事自体は「いい思い出」以上に頭の中に残っています。Macintoshにはまり、デジタル化に進み、NET社会に突入する。その真っただ中で起こった事で、産業革命に次ぐ大きな時代の変化、印象に残る人たちとかかわった事には何かしら意味があると思う。

正直に言うと、H2oというブランド名。これを抑えた岩崎氏のセンスを疑っています。ブランド名コレクターであり、アメリカのビジネスマンにあこがれていた彼は多分「誰も抑えていなくてラッキー」みたいな感覚で申請したと思われるが、これを通す特許庁も特許庁と思う(昔の話し)。

ちなみにこの頃には「WIRED」の商標も彼は抑えた。これはおそらくJoiとの話の中で出たこれら情報を基に先押さえした物と思われ、その後ワイアード側からクレームが付き商標はワイアード側に渡した。

この頃の彼(日本全体?)のこれら知的財産などに関する知識は低く、少し前の某C国(現在も進行形と思うが)と感覚は同じ。実際例えばアパレルアイテムの様にそもそも特許が申請できない物も存在するが、それ以外技術的な事や意匠や図案などは特許等取得が可能で、PARSON’Sのライセンスで扱う物には多くそれらも存在した。当然気にしないで良いものもあるのですべてを抑える必要は無い、が、相手がしっかりした企業となると、先方で特許を申請し発案者として記載もしてくれる(服部SEIKOなど)。

私が離れようと思った要因の大きな部分です。

そしてH2oというブランド名でアパレルは無理と思っていた自分の意見は間違っていなかったとw

で、続き。

帰国後特に岩崎氏に内容を報告する事もせず、PARSON’Sには顔を出さずそのままフェードアウトした。

契約内容によると三ヶ月経過したらそのまま契約は解除になる。なのでとにかく三ヶ月おとなしく身を隠す。途中何度か連絡はきたが無視。

三ヶ月経過後、PARSON’Sと私が直担当だった取引先へはPARSON’Sを離れた事を郵便で通達。

速攻岩崎氏から「勝手にやめた宣言するな!」と電話が来た。その電話には対応した。

「あなたとの契約はすべて終了したのでさようなら。」が答えです。今から考えてもかなり突っ張った形でこれらから離れた状態。

これらは95年。神戸の震災があり、地下鉄サリン事件があった1月~5月の話し。3月からPARSON’Sには顔を出していないので5月末には帰国し6月いっぱい体を休めていた。

この2月には息子が生まれています。

実は

この書き込み内容の20年以上後、岩崎氏が他界する4年ほど前彼と合って話しています。理由は今他のカテゴリーで書き込んでいるように、すこしアパレル寄りの仕事に取り組んだため、逆恨みで邪魔されたくないという思いがあり、こちらからコンタクトを取りました。

電話にでた岩崎氏は「びっくりした、まさか君から連絡してくれるとは思ってもいなかった。」という事。で、彼の当時のオフィスにお邪魔し、小一時間お互いの近況報告などを話し「すまなかったあの時はお金が欲しかったんだ。。」という謝罪の言葉が来た。これには正直自分も驚いた。

彼がPARSON’S創立前の原宿あたりの硬派な不良からは、いじめの対象でもあったようで、以前岩城滉一氏と話した時「あ!ミッキーの所にいたんだ!あいつ嫌いだと思うよ俺の事、いじめてたから」という事。岩崎氏は当時の原宿のホコ天で彼のコレクションである「ミッキーマウス」を販売していたことから「ミッキー」と呼ばれていたので、アパレルや芸能界の自分よりすこし上の世代の方々には「ミッキー」で通る。容姿がゴダイゴのミッキー吉野さんに似ているからかと思っていたが、実はもっとかわいらしい理由だった。

H2o当時、Joi主催のレセプションに顔を出した時、ゲストで立花ハジメさんがいてギターを弾いていた。とりあえず挨拶したら「知ってるよ、ミッキーの所にいる奴だろ」みたいな返事。Mac使いとしてすこしは名が通ていたので自分の事は知っていた様です。でミッキーの事となるとすこし態度が粗いw

PARSON’Sのブランドロゴは、設立当初岩崎氏が立花ハジメさんに依頼して出来た物。そう、この界隈ってなんだかんだ狭くどこかで繋がっていたりします。

岩崎氏のもとで働いた人のほとんど、彼の事が嫌いになって離れて行く。私の離れ方も近いとは思うが、当然あきれてはいたが、私は彼を「天才」と理解しており、少しサイコパスな商才豊かな天才なので普通じゃないのは当たり前、的な接し方をしていた。

正直私は彼の高校の同級生であった?「飯田淳」氏(飯田さんはPARSON’Sにとって雲の上の存在なので別格です)を除き、とても優遇されていたと自覚していて、誰よりも自由に接していたと思う。

他の仕事で忙しく、寝不足だった時など普通に社長室のコルビジェで仮眠したり、「ねえ社長これってどうなの?」みたいな感じでほぼタメ語で話をしていた。

この話を含み今更ながらいわゆる「ブログ」を、アフリエイト以外の目的で書くことにしたのが2021年初め。色んな思いもあり書き始めたこれら、どこかのページにも書きましたが最近各項目が少しずつ絡んできて何かの形になりつつあります。

いくつかのアクセスは確認でき、また検索されてきたことも確認していますが、本当に少数でほぼ誰も知らない、知りたくもないこのH2oの話しだからこそ、NET上に残しておこうと。

おそらくこの-/-カテゴリーも新しい内容になっていくと思います。

H2oをご存じだったみなさん。ここまでお付き合いありがとうございました。

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